General Information 2 | 遠州・三河の花火
1-2. 遠州・三河の花火
三河地方は江戸時代、徳川幕府によって唯一火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた土地です。その名残か、現在でも三河・遠州地方周辺は全国的にみて煙火の製造業や、花火大会などにおける打上げ行事が盛んです。
江戸幕府開府の祖である徳川家康が天下統一を果たしたとき、反乱を恐れた家康は火薬の製造・貯蔵や、原料となる硝石の保有を彼の故郷である三河のみに限らせました[伊沢, 1982, 江口, 1982]。戦乱の時代が終わり江戸幕府が開府した後も、家康は各藩に対して火薬の製造を厳しく取り締まったのです。そして三河武士のみの間で内密に伝えられた火薬の取り扱い方法 (火術)は、やがて庶民の間で火薬の危険性を恐れる神への信仰心と結びついて、祭礼用の献上花火が奉納される様になったと考えられています [伊沢, 1982]。
江戸時代以前にも、1560年の織田信長と今川義元による桶狭間の戦いの時には既に、祭礼で花火を奉納したという記録が残っています [伊沢, 1982:8]。
更に、三河は江戸、京都、鎌倉の中間地点にあり、東西日本の連絡街道である東海道が通っていました。そこで、政府はこの地を積極的に神社仏閣の所領と(天領化)したとされます。そして、三河の神社は古くから、そこを通る武士達の、先勝祈願の信仰や戦死者の弔いの場となりました。この事は、三河地方において奉納花火の機会を更に増やしたと考えられます[伊沢,1982]。
このような三河の歴史的・地理的特徴は、現代の花火作りにも影響を与えています。三遠煙火の社名の由来でもある三河・遠州地方における花火の最も大きな特徴は、地元住民が花火の観客であるというだけでなく、自らも積極的にその打上げに関わってきたという事ではないでしょうか。
例えば遠州・東三河地方には、お祭りの際に手筒花火を奉納する神事が多く残っています。手筒花火とは、竹筒の中に火薬を詰め、その筒から火花が吹き出す手持ち花火の事です。もともとは火薬製造の安全を祈願する為のもので、地元の神社に奉納されるものでした。現代では、多くの地元保存会などの有志団体によって、手筒花火の込め方、打上げ方法などが保存・継承され、地域の文化の一つになっています。
手筒花火を制作する際には、近隣の煙火工場内で、花火屋が配合した火薬を自作の竹筒に充填します。三遠煙火でも、火薬の提供などにおいて手筒花火制作のお手伝いをさせていただいております。
三河地方で最も大きな花火大会のひとつに、400年以上続いているとされる三河吉田 (現:豊橋) の豊橋祇園祭があります。これは吉田神社への奉納花火だったものから発達した伝統行事です。境内で余興として打上げていた花火を豊川の河川敷でも行う様になりました。今でも開催日には、豊川に浮かべた筏の上で、多数の町の保存会会員が、自らこめた手筒花火を放揚 (ほうよう:手筒花火をあげる事) する様子が何度も見られます。
このように、国や県などの自治体のみではなく、住民が主体となって花火の伝統を守り、受け継ぐという文化が地元に根付いている事は、遠州・三河地方における花火作りに大きく影響しています。